第八話 青年インカ(17)【 第八話 青年インカ(17) 】 大混乱に陥った街の住民たちの様子に、敵方とはいえ、ピネーロも目を見張っていた。 さすがに、此度ばかりは、アンドレスも、ついに住民の犠牲を覚悟の上で、己らスペイン軍を叩き出そうとの決断に至ったのか?! ――いや…考えられぬ! あの青二才が、そのような……!! この期に至っても、ピネーロの中には、アンドレスがそのような手段に出ようはずがないとの信念を、完全には打ち消すことができずにいた。 だが、ならば、眼前で生々しく繰り広げられている惨劇を、どう説明したらよいのだ? しかも、己の周りにも、完全に水が回っているのだ!! スペイン軍中枢部から大軍をあずかる身として、このまま、むざむざ兵や武器を水没させるわけにはいかなかった。 「ピネーロ様、いかにいたします?!」 逼迫し切った表情で走り寄る副官や兵たちに、ピネーロは鬼のような形相で奥歯を噛み締めながらも、反吐(へど)を吐き捨てるように言い放つ。 「やむを得ぬ。 街中から兵を退(ひ)く――!」 「はっ!!」 「急げ!! 全軍に、火器の移動に細心の注意を払うよう指示をしろ。 火器に水が触れては、大損だ!!」 「はっ!! ただちに!!」 こうして、2ヶ月間に渡って強硬に立て篭もり続けてきたスペイン軍は、ついにソラータの街中から慌しく退却を開始した。 此度の水流は、決して急激な勢いを伴うものではなかったが、ジワジワと確実に増してくる水量は、火器に頼るスペイン軍にとっては非常に嫌らしい相手である。 数十門の大砲に砲弾、銃器、火薬、いずれも水を嫌う武器ばかり――ピネーロたちは、それらの武器類を水に浸らせぬために必死であった。 こうした事態に備え、深夜のうちから、退却準備をある程度まで整えていたことが、まだ辛うじて救いではあったが…。 しかし、それでも、ソラータの街中に粘りすぎたと、今や膝上に達するほどの泥水を頭まで跳ね上げ、ぬめる砲身にひどく手こずりながら、這(ほ)う這うの体(てい)で街を去っていく。 もはや火器の被害を最小限に喰い止めることに必死のピネーロ軍には、人質としていたソラータの住民たちを構っている暇も、余裕も、今は無かった。 しかしながら、彼らの火器には、水の非情な魔手が、既に、かなりの段まで及んでいたのだが…。 他方、裏山に身を潜め、その時を待っていたロレンソ軍一行は、隊長ロレンソの合図と共に、今こそとばかり街中へと飛び出した。 「今だ――!! 住民たちを助けに参るぞ!!」 膝まで冷たい泥水に浸かり、怯え切って逃げ惑っている住民たちの中へと、約千人のインカ兵が、各受け持ちの市街区へと決然とした足取りで走り出していく。 兵たちは、各区ごとに、あらかじめ計画された一定の避難ルートに沿って兵を配し、安全な高台に向けて、急ぎつつも、確実に、誘導と避難の援助を開始した。 突然、街中に姿を現した見知らぬ精悍なインカ族の男たちは、皆、貧しい平民の服装に扮してはいたが、その風貌のみならず、沈着で勇壮な態度から、彼らが兵士であることを、住民たちは、すぐに察することができた。 「住民の皆さん、落ち着いてください!! 此度の作戦は、皆さんを救出するためのものでもあります。 決して、インカ軍は、あなたがたを見捨てたわけではありません!!」 インカ兵たちは人々に大きく声をかけて誘導しながら、水中で溺れそうな子どもを抱き上げ、立ち往生している老人に肩を貸す。 「さあ、我々の誘導に従って移動してください! こちらへ!! 大丈夫、必ず、安全な場所へ避難できますから!!」 ソラータの長や、長と共に街を治めていたブロック長たちもまた、住民たちを先導し、インカ兵たちが信用に足ることを共に訴え、協働して行動してくれたことも、住民たちに安心感を与える大きな助けとなった。 やがて、それら多数の頼もしいインカ兵たちの導きに、パニック状態になっていた住民たちは、徐々にその混乱から抜けていく。 そして、涙を拭って、兵たちの導く方へと歩みはじめた。 今、ロレンソ自身は、街の全体を見下ろせる高台へと移動し、それら住民たちの避難状況の全容を、そして、今は退却に必死になっている敵軍の状況を、鋭く俯瞰している。 彼は、厳しい面持ちで、密かに腰に備えた銃を、服の上から強く握り締めた。 多数の住民たちの避難は、いかに計画的に遂行されているとはいえ、そう容易なことではない。 街中では兵たちの必死の救助と避難誘導が行なわれてはいるが、住民たちは、ますます水量を増す冬の冷たい水の中で、その形相は青ざめ強張っている。 幸いにも高台へと避難を完了した人々は、そのままインカ軍の陣営へと導かれてはいっているが、まだ、その何倍もの多くの住民が街中の低地にいて、必死で避難を続けていた。 既に、水は、優に大人の大腿部辺りまで増してきている。 しかも、此度の水攻めに至るまでに、食糧の欠乏などで既に疲弊の激しい住民たちは、自力では十分に歩けない者も少なくはなかった。 インカ兵たちは、各家々をも回りながら、取り残された住民がいないかを確認して回ってもいた。 それらの作業、ひとつひとつが、予想以上の水かさの増加のために、計画以上の時間を要している。 ロレンソは、さらにきつく銃を握り締めた。 その鋭利な目元が、非常に険しく吊り上る。 (アンドレス……!! 何をしている…?! 計画では、そろそろ水は止まるはずではないのか?! この勢いで水が増え続けては、住民全員が避難し切るまでに、間に合わないぞ!!) その頃、インカ軍陣営傍の河川では、無数の兵たちが堤防で必死に作業を続けていた。 此度の作戦の重要な一端として、彼らは、先ほど決壊させた堤防の一部を、再び塞ぐ作業に没頭していたのだ。 大きく波立つ川の冷水と泥にまみれながら、大掛かりな作業に専心する彼らの横顔には、この寒空の下にもかかわらず、大量の汗が伝い流れている。 彼らは、強靭な矢板(註:土砂の崩壊や水の浸入を防ぐため、地盤に打ち込む板状の杭)で水を堰き止め、石と土塁を組みなおすために、懸命に暴れ水と格闘していた。 とはいえ、堤防を築き決壊させる作業にも増して、決壊させた堤防を再び塞ぐ作業は困難だった。 しかも、限られた時間の中でそれを行なうのは、難儀極まりない。 だが、そのためにこそ、本来は住民たちの救助に回したい兵力を抑えてまで、2万もの兵を、この堤防の作業に残したのである。 ずぶ濡れの兵たちは、堤防傍に高々と組み上げた多数の頑強な柱から、何本もの巨大な矢板を吊り上げ、決壊させた堤防の側面に打ち込もうと懸命になっていた。 しかし、流水の勢いが予想以上に激しく、また、思いの外、強い突風が吹きつけ、吊り上げられた矢板は風に煽られ、思うように打ち込まれてはくれない。 アンドレスは、作業現場の波打つ川の中で、跳ね上がる泥水を全身に浴びながら、無我夢中で指示を続けていた。 「もっと矢板を右に…右だ……右に!!」 声が枯れる程に叫ぶ彼の形相は、今や必死を通り越して、恐ろしく険しくなっている。 (はやく…水を…水を止めなければ…――!!!) このままでは、住民やロレンソたちまで水底に沈めるなど、あんな冗談が冗談でなくなってしまう。 唸る風になぶられながら、アンドレスは目を剥いて、唇を噛み締めた。 作業に抗うように、全く言うことをきこうとしない暴れ水と矢板を睨み据える彼の傍に、水しぶきを上げながら、兵が走り込んできた。 「アンドレス様!! ご指示の石の準備ができました!!」 「量は?!」 相変わらず大水が激しく暴れ狂う堤防を見据えながら問うアンドレスに、兵は、力強く応える。 「約20トン!! 既に、堤防脇に運び上げてあります!!」 「そうか!!」 決然と振り向いたアンドレスの前髪から、無数の泥水が弾け飛んだ。 「すぐに、決壊部に投入を!!」 「はっ!!」 兵が素早く走り去る。 アンドレスは、再び堤防を険しく睨み据えた。 その時だった。 「アンドレス――!!」 河川傍の高台の方から、凛とした声が響きくる。 「!!」 太陽が高い位置まで昇った天空に、煌くように響き渡るその声――驚いて振り向いたアンドレスは、瞬間、ハッと大きく息を詰めた。 清冽な冬の陽光を受けて、美しい切れ長の目でこちらを見つめながら、黄金色の覇光を纏って凛然と立つその姿―――。 (ト…トゥパク・アマル様……――?!!) アンドレスは大きな瞳を見開いて、完全に、そちらに釘付けられた。 コンドルの舞う雄大な蒼穹を背景に、高台の人物は、アンドレスの方に静かに微笑んだ……ように見えた。 トゥパク・アマル様―――!!! アンドレスが心の中で叫んだ瞬間、再び、高台の方から凛と声がした。 「アンドレス!!」 「!!」 急に我に返ったアンドレスは、「あ…!」と、小さく叫んで息を呑む。 両の目で瞬きをし直し、瞳をこらして見つめる彼の視線の先にいるのは、陽光を浴びて丘に立つ少年――トゥパク・アマルの第二皇子マリアノだった。 「マ…マリアノ様…!!」 アンドレスは濡れた泥だらけの手の甲で、慌てて目をこする。 目に泥が染みる痛みも忘れて、彼は皇子の姿を見上げた。 高台の上から、マリアノは非常に案ずる眼差しで、堤防とアンドレスとを交互に見つめている。 トゥパク・アマルが囚われて以来、アンドレスが陣営で匿(かくま)ってきたマリアノは、まだ10歳のトゥパク・アマルの第二皇子である。 敵兵の目に決して触れさせず、完全なる庇護を果たすため、マリアノは、平素は、堅く守られた陣営最奥の特別の居所から出ることは、殆どない状態で過ごしていた。 しかし、此度のただならぬ陣営の様相を敏感に察知した利発な皇子は、己の意志で、今、堤防傍の高台まで駆けつけてきたのだった。 まだ10歳の少年とはいえ、その切れ長の目も、絹のように流れる黒髪も、高貴で凛とした存在感ある気配も、父トゥパク・アマルの持つそれに非常に似ている。 その身で強風を切るようにして堂々と高所に立ち、遥々と堤防に布陣する己たちを見渡すマリアノの姿に、兵たちも皆、トゥパク・アマルの姿を重ねずにはいられない。 囚われているはずの彼らの皇帝トゥパク・アマルが目の前に甦ったかのような、颯爽たる皇子の到来によって、先刻までの差し迫った混乱した場の空気は、いつしか漲る高い士気の中に包まれていた。 アンドレスは、その空気の変化を敏感に感じ取りながら、己自身の中にも激しく熱く込み上げるものを覚えて、高台の方へと深く礼を払った。 「マリアノ様!! どうか、そこでお見守りを!!」 アンドレスの声に、マリアノは、トゥパク・アマル似の凛々しい面差しのまま、それでいて少年らしい闊達な仕草で、大きく頷き返した。 そして、その年端に似合わぬ研ぎ澄まされた切れ長の目で、全軍の兵たち一人一人を包み込むように、遥々と見渡していく。 今、トゥパク・アマルが宿ったかのようなマリアノの眼差しは、まさしく彼の父、トゥパク・アマルのそれそのものだった。 己の全身に再び強い鋭気の漲るのを感じながら、挑むように、アンドレスは暴れ狂う堤防を振り仰ぐ。 そこでは、まさに20トン級の大量の巨石が、堤防の決壊部に投げ込まれようとしているところだった。 「よし!! 投下しろ!!」 毅然とした彼の声を合図に、兵たちによって、膨大な量の巨石が、逆巻く濁流の中へと続々と投げ込まれていく。 苛烈な激しい流水に立ち向かうに相応しい無数の巨石に押し留められて、さすがの暴れ水も、その勢いを徐々に殺(そ)がれていく。 「いいぞ!! もっと土嚢(どのう)も投げ込め!!」 アンドレスは、己を呑み込むほどに波立ち、泡立つ水中で、泥まみれの足を大きく踏み込んだ。 そして、射竦めるがごとくの険しい眼で、宙に吊り上げられた矢板をギリッと睨む。 高台のマリアノも、鋭利な眼差しで、きっ、と天空を見据えた。 その時である。 今の今まで吹き荒れていた暴風が、ピタリと、凪いだ――。 今だ……―――!!! 誰もの思いが一つになって、そう叫んだ瞬間、中空の矢板が、水中に向かって牙を突き刺すがごとく、容赦無い勢いで振り下ろされた。 巨大な鉄槌さながらの無数の矢板が、轟々と流れる大水の中へと、そして、川底の大地の中へと、深く、強く、メリメリと喰い込んでいく。 川面が、ゴウッと悲鳴のごとく轟音を上げて渦巻き、激しく、大きく波打った。 それは、まるで、胴体を切り離された大蛇の怪物が、真っ二つに割られた身を激しくのたうち、絶叫しているかのようである。 しかし、その抗(あらが)いもむなしく、大水は魔力を奪われたように次第に動きを弱め、やがて小さな波立ちのみを残して――…ついには、死んだように大人しくなった。 誰もが、全身水浸しになったまま、恍惚として、堰き止められた堤防の断面に見入っている。 が、すぐに、長大な堤防の随所から大きなどよめきが上がった。 「やった!! やったぞ!!! 水が止まった!!!」 全軍の兵たちから、弾けるような喝采が沸き起こる。 歓喜に沸き立つ兵たちの間から、アンドレスは、思わず高台のマリアノを振り返った。 一方、マリアノも、アンドレスと兵たちとを交互に見渡しながら、ガッツポーズをするかのように拳を力強く握り締め、明るい笑顔を輝かせている。 今はすっかり10歳の少年らしいマリアノに、アンドレスは込み上げる喜ばしさと微笑ましさから、大きく手を振って笑顔を返した。 そして、まだ激しく肩で息をしたまま、泥水と汗にまみれた額をドロドロになった腕でぐっと拭う。 彼は、はやくも真顔に戻った険しい眼差しで、辛うじて魔物を封じたがごとくの矢板と堤防に真っ直ぐ向き直った。 (ロレンソ、そっちは、どうなっている?! こっちは、何とか、水は止めた…! だが、いよいよ、本番はこれからだ……!!) 他方、その頃、ソラータの街中から慌てて退却を続けていたスペイン軍は、街はずれの高台の上へと、ひとまず避難を完了していた。 幸い、此度の水攻めでは、かなりの高さまで水かさは増したものの、流水の勢いはさして激しくもなく、スペイン軍に人的な被害は皆無だった。 しかし、それでも、火器は少なからぬ痛手を蒙っており、30門をくだらない貴重な多数の大砲や、砲弾、銃器や火薬まで、水の手がかなり回っていた。 火器への被害状況を調べさせながら、ピネーロは、苦々しげに口の端を歪め、苛々と顎鬚をさすっている。 今、彼が立つ崖上からは、ソラータの街が遥々と俯瞰できる。 ピネーロは、ふと眼下の街並みを見下ろした。 そして、すぐに、ピクリと太い眉を上げた。 「――!!」 彼の目元が、わななきながら、たちまち不自然に引きつっていく。 (どういうことだ…? あれほど混乱していたはずの住民どもが、何故、あのように整然と避難をしている? いや…先導されているのか…?! 誰に…――まさか……!!) 険しさを増すピネーロの視線の先では、先刻までパニックに陥り逃げ惑っていたはずの住民たちが、まるで隊列でも組んでいるがごとくの整然さで、水中を掻き分けて進みながら、己らが撤退した方角とは反対側の街はずれの高台に向かって、懸命に移動しているではないか。 それどころか、耳をすませば、住民たちに向かって熱心に呼びかける男たちの言葉さえ、風に乗って聞こえくる。 さあ!!我々の誘導に従って移動してください!こちらへ!!大丈夫です、落ち着いて――…… 街では先程までの混乱ぶりはすっかり沈静化し、住民たちは皆、その声の主たちに従って、まるで軍隊さながらの秩序を保って移動している。 その上、年寄りや女性、子ども、病人、負傷者など、逃げるのに支障のありそうな人々は、逞しい体格の男たちに抱きかかえられたり、肩を支えられたりしながら、手厚く庇護されて進んでいる。 ピネーロも、街の方角をさらうように見下ろしていた他のスペイン兵たちも、いつしか非常に険しい面持ちになり、血走った眼光で、ギッと街を睨み据えた。 一見、眼下の街の群集の中に、兵の姿は無い。 いずれも貧しげな平民たちばかりだ――しかし、人々を整然と誘導している、妙に、動きも体躯もいい無数の男たち……!! 「あれは、兵だ…! ピネーロ様、インカ兵が紛れているのです……!!」 ピネーロの脇で副官がいきり立った時には、既に、ピネーロも、その分厚い胸板を傲然とそらし、魔人のごとく凄まじい形相に成り代わっていた。 「なるほど…アンドレス…こういうことか―――」 ピネーロは、総毛立った頭を真っ赤に憤らせ、ギリリと奥歯を潰れるほどに噛み締めた。 そして、地底から湧き出すドス黒い声音で、吐き捨てるように言い放つ。 「――逃すな……! すぐに追い討ちをかけよ!! 住民どもも、あの中に紛れているインカ兵どもも、絶対に逃がすな!! インカ兵は当然だが、住民どもであろうが、もはや言うことをきかねば、撃ち殺しても構わぬ!!」 「で、ですが…ピネーロ様、追い討ちと言っても、水が……!!」 難色を示す白人兵だったが、しかし、彼らはハッと息を呑んだ。 いつしか、街中から、水が引きはじめているではないか。 「ピネーロ様…水が!! 水が、引いていきます!!」 味方の兵たちの歓喜の叫びの中、普段は頑として冷厳なだけのピネーロの口元にも、さすがに、二マリとした笑みが浮かんだ。 「ふん…あれほどの大がかりな水攻めも、失敗か…?」 ほくそえむピネーロの眼下では、まさに彼の言葉通り、先ほどまでの勢いはどうしたことか、水がジワジワと引いていく一方である。 その間にも、戦闘態勢を整えたスペイン兵たちは、ピネーロの号令と共に、逃げ去る住民たちを追って、一斉にソラータの街中へと進撃を開始した。 「絶対に逃がすな!! 追え!!!」 たちまち怒涛の勢いで、難を逃れた銃器を振りかざしながら、逃げる住民たちに討ちかかろうと高所を駆け下りていく白人兵たち―――!! 一方、住民たちは、この時までには、かなりの人数が、街はずれの高台の上へと移動を完了してはいた。 しかしながら、アンドレスたちが堤防での水の堰き止めに手間取ったがために、街には水かさが予定以上に増し、その結果、住民たちの避難にも遅れが生じていた。 まだ実際には敵兵との間には距離があったものの、銃を構えた敵兵たちが背後から襲い来る姿に、避難民たちは震え上がり、その足取りは浮き足立った。 他方、敵兵たちは、逃げる住民たちと、彼らを助けて進み続けるインカ兵に向かって、脅迫的な叫びを上げながら、まるで何かの復讐を果たさんとするがごとくの凄まじさで迫り来る。 「止まれ!! 止まらねば撃つぞ!!!」 スペイン兵の中から隊長格の厳(いかめ)しい男が、逃げ去る住民たちの背に向けて、再び脅迫に満ちた冷酷な声を放つ。 「止まれ!! 我々は本気だ!! 兵でなくとも、逆らえば、容赦なく撃ち殺す!!」 銃殺を迫る敵兵の言葉に、住民たちは凍りつき、ビクリと足を止めた。 咄嗟に、インカ兵が激励しながら、歩みを続けさせる。 「止まってはいけない!! 囚われれば、今度こそ、皆の命はありません!! 大丈夫です!! 我らを信じて、このまま進むのです!! 急いで!!」 インカ兵たちに強く促され、再び逃走し続ける住民たちの最後尾は、ついに高台の中腹までさしかかってきた。 「くそっ……!」 スペイン兵たちは、いよいよ険しい眼を吊り上げた。 そして、インカ兵と住民たちの背部に照準を定め、水の被害を免れた銃器を構える。 「発砲用意!! 狙い、定め―――」 敵兵の隊長が、号令を放ちかけた瞬間だった。 突如、雷鳴のごとく凄まじい炸裂音が、スペイン兵の先頭部隊周辺で鳴り響き、強烈な熱風と共に辺りの大地を大きく揺るがした。 「!!!」 驚愕して敵兵たちが見渡す視界は、硝煙で完全に曇っている。 「な…なんだ…?!」 やがて、轟々と上がる硝煙が大気に溶けると、炸裂音のあった周辺の隊列に、巨大な空隙があいている。 しかも、その空隙周辺にいたはずのスペイン兵たちは、無残にも、数メートル先まで吹き飛ばされていた。 ギョッとして、残りの敵兵たちが目を見張った瞬間、再び、その白い集団の中に、壮絶な地鳴りと耳を劈(つんざ)く爆撃音が上がった。 砲撃されたのだ!!―――と、彼らが悟るのに時間はかからなかった。 スペイン兵らが、砲弾の放たれた方角へと血走った目を上げると、左右の小高い丘陵部に、各5門ずつの黒光りする砲身の頭部が見える。 と同時に、それら大砲の背後から、銃を手にした数百名の褐色の男たちが、ズラリと姿を現した。 皆、平民の服装をしているが、その身のこなしや体躯のさまから、明らかにインカ族の兵士だと分かる。 そして、それらインカ兵たちの中から、非常に鋭利な目をした若い一人の兵が進み出て、眼下のスペイン兵たちを冷徹に見下ろした。 その青年兵――ロレンソは、よく通る、決然たる声音で、敵兵たちに厳然と言い放つ。 「それ以上、住民たちを深追いすれば、容赦はせぬ!! それより先、一歩たりとも、前進はさせぬ!!」 周囲の山壁に、鋭くこだまして響き渡る彼の言葉と、完全に隙無く狙い定める武装したインカ兵、そして、自分たちを挟み込むように高台に備えられた10門の大砲に、さすがのスペイン兵たちも身を怯ませた。 しかし、ますます水の引いていく街中へと、早くも大軍を率いて戻りきた敵将ピネーロは、ロレンソらの砲弾の届かぬ安全な位置にいて、味方の兵に、鋭い手つきで何かの合図を送った。 「ふん…インカ兵の砲撃など猿真似同然。 すぐに、あれを持って来い――!! 大砲の本当の撃ち方を教えてやる」 ピネーロの言葉に、彼の傍に控えていた白人兵たちが、恭順を示して走り去った。 丘陵上のインカ兵たちが、銃と大砲を構えたまま、白人兵たちの動きに睨みを利かせている間にも、ピネーロの指示により、敵軍の中心部より何かの武器が運び出されてくる。 ロレンソは、険しい形相のまま、その見慣れぬ新たな敵の武器に目をこらした。 それは大砲の一種と思われたが、この時代に一般的な40口径前後の大砲に比して、明らかに小型に見える。 ロレンソの脇では、インカ兵たちが、やはり非常に訝(いぶか)しげな声で呟いている。 「あんな遠くから、こんな高所に向けて放っても、弾が届くはずは……」 だが、ロレンソは、さらに嫌な予感に憑かれて、目元をそびやかせた。 (なんだ? あれは、大砲か? にしては、いやに小さい――…) その不気味に黒光りする小柄な砲身が、見たことも無いほど仰角を上げながら、頭部を己らのいる丘陵部に向けてくる。 ロレンソは、反射的に、周囲の兵たちに叫びに似た声を放っていた。 「下がれ!! 撃ってくる!!」 ロレンソの声と同時に、兵たちが瞬時に後方に走り、下がった。 と、殆ど同期するように、高熱に燃える砲弾が、彼らのいる丘陵部に打ち込まれてきた。 足元から地が引き裂かれるがごとくの衝撃波に、激しく全身が振動している。 辛うじて砲弾を逃れたロレンソらインカ兵は、地に伏したまま、息を荒げる。 ロレンソの傍に伏していた部下の一人が、額に脂汗を滲ませながら、呻いた。 「ロレンソ様…な、なんです? あの武器は…?! あんな遠くから、しかも、こんな高所に向けて、打ち込めるなんて……!」 俊敏に身を起こし、周囲の兵たちの無事を素早く確認しながら、ロレンソは早口で応える。 「わたしにも分からぬ。 だが、恐らく、新手(あらて)の大砲の一種だろう。 あのように小型の口径で仰角も広いとなると、砲弾は軽かろうが、かえってその分、飛距離も長く、高射も可能なわけだ…」 彼は、唇を噛んだ。 「くそ…! 厄介だな……」 ロレンソは、山の中腹で、まだ避難を続けている住民たちに素早く視線を走らせると、意を決した眼で銃を握り直した。 「一部の兵は、ここから砲撃を続行。 残りの兵は、わたしと共に街に下りる! 市街地での銃撃戦となるが、やむを得ぬ。 住民たちが避難を完了するまで、時間を稼ぐぞ――!!」 ロレンソの言葉に、激しい緊迫感を漲らせながらも、配下のインカ兵たちが精悍な横顔で頷いた。 それら兵たちを、ロレンソは鋭利な面差しで俊敏に見渡した。 「街中に散開して、敵を混乱させろ。 いいか、敵を撃つことに意を取られるな。 住民が逃げ切るまで、あくまで時間を稼げればよい。 ――そして、敵軍を、我らを囮(おとり)にして、ソラータの街中に留めること。 最終的な決着は、大水がつけてくれる!」 「はっ!!」 逞しい褐色の指先に握られた兵たちの銃が、陽光を反射して滑らかに光る。 「住民の避難が完了した時点で、合図する。 その時は、迷わず、即座に高所に退却しろ」 「はっ!! ロレンソ様!!」 「よし! では、参るぞ!!」 兵たちの目元が、獣のごとく閃光を放つ。 ロレンソの号令を皮切りに、その場にいたインカ兵たちは、一部の砲撃兵を丘上に残し、避難住民と敵兵との間に割り込むようにして、市街地へと走り降りていく。 陽光を受ける褐色の逞しい肌を艶やかに光らせ、敏捷に山を駆け下りる男たちの姿は、アンデスの聖獣ピューマの群れさながらであった。 かくして、ロレンソ軍が市街地での銃撃戦に突入しようとしていた頃、それら一連の状況を知らせに走ったインカ兵が、弾丸のようにアンドレスの元へと駆け込んできた。 アンドレスは、いよいよ最終的な水攻め作戦決行の瞬間に向けて、先刻、堰き止めたばかりの堤防傍で、最後の調整を指示している最中だった。 兵から報告を受けたアンドレスの横顔が、急激に張り詰める。 「ロレンソたちが、市街地で銃撃戦に…――!?」 「はい!! 住民たちの避難が完了するまでの時間を稼ぐと……!!」 激しく息を切らす兵を愕然と見下ろしながら、アンドレスは、震える拳を握り締めた。 「無茶な……!!」 己が堤防を塞ぎなおすのに手こずったが故に、住民の避難に遅れをきたしてしまったのだ…そのために――!!! アンドレスは、濡れ鼠のごとく乱れ切った頭を抱えて、泥水の滴る髪を掻き毟った。 (くそ…!! 俺のやることは……いつも…どうして、こう、後手、後手に回るのか!!) アンドレスは己を激しく呪い苛(さいな)みながらも、堤防に残る隊長たちを急遽呼び出し、速攻、彼らの部隊の一部を銃器で武装させ、銃撃戦と避難民救助の援軍として市街地へと飛ばした。 それから、次なる作戦を指揮するために、堤防を見渡す高台へと、恐ろしく険しい形相で駆け上る。 「すぐに、全員、配置に――!! 最終作戦の決行を早めるぞ!!」 一方、その頃、ソラータの市街地では、ロレンソたちインカ兵とスペイン兵たちとの間で、銃撃戦の火蓋が切られていた。 轟き渡る銃声の中、インカ兵は、あの獣のような俊敏さで街中に広く散開し、敵兵を撹乱しつつ、物陰から狙い撃っている。 とはいえ、敵兵の数に対して、インカ兵の数は数十分の一にも満たぬ少数――いくら彼らも銃器で武装しているとはいえ、さしたる攻撃力には成りようもなかった。 結果、インカ兵を執拗に狙撃するスペイン兵と、敵兵の動きを懸命に読みながら銃弾をかわして疾走するインカ兵、という構図にならざるを得なかった。 住民の避難完了までに、数分でも、数秒でも、多くの時間を稼ぐために、まさしく文字通り捨て身の「盾」と化していた。 幸いにして、スペイン軍の保有する火器は、先刻の水害により相当な痛手を受けており、また、インカ兵の野獣のごとく運動能力の高さも手伝って、思いの外、敵兵は手こずっていた。 家陰からチラリと姿を現しては瞬く間に姿を消すインカ兵に手を焼きながら、同様に物陰に身を潜めて小銃を構えるスペイン兵たちが、苛立たしげに舌打ちする。 「ちっ…! インディオが、生意気に銃など持ちやがって…! 猿真似に過ぎんわりには、妙に、上手く立ち回りやがる――…!!」 一人のスペイン兵がペッと地面にツバを吐くと、隣に身を潜めてインカ兵の動きに目を光らせている同僚に、横目を走らせた。 「丘の上で偉そうに何か言ってやがった若いインカ兵…あいつが、首領か?」 「かもな」と、隣の白人兵も、チャッと銃を構え直しながら、低く呻く。 「とっとと仕留めちまいたいものだぜ…」 その時、不意に、彼らは何かの気配を直近に感じ、すかさず身構えた。 「!!」 「――敵兵か?! どこだ?!」 「いるか?! 近い?!」 二人の白人兵は銃を構えながら素早く周りを見回すが、視界の利く範囲内に、インカ兵の姿は見当たらない。 「ちっ…どこに…?!」 スペイン兵たちの背筋を、冷たい汗がじわりと伝う。 と同時に、一陣の風が吹きぬけ、物陰に潜む彼らの足元の草が、ザワリと揺れた。 ふと二人の視線が己らの足元に走って、男たちは、ギクッ、と反射的に身を固めた。 すっかり高く上がった陽光の下、二人の足元には、黒々とした3人分の影が映っている――! 「!!」 「上だっ!!」 反射的に二人はバッとその場を跳ね退き、頭上の屋根を振り仰いだ。 しかし、完全なる逆光―――!! インカ兵の姿も何も見えぬばかりか、鋭いナイフのごとく陽光が、二人の眼球を刺し貫いた。 「!!!」 まずい―――!!! そう彼らの意識が走った瞬間には、ロレンソの手元の銃が、二人の白人兵の胸元を撃ち抜いていた。 無情に響き渡る銃声―――…… ロレンソは屋根の上で身を屈め、鋭利な横顔で眼下を見据えた。 彼の手にかかり血潮に染まりゆく敵兵たちの亡骸に、僅かに目を伏せ、弔いの礼を払う。 と、たちまち、獣の敏捷さで屋根から飛び降り、銃弾の間を縫って次の物陰へと走った。 ロレンソは、新たな遮蔽物の陰から味方のインカ兵たちの動きを見守り、援護しつつ、次なる標的を狙って息を潜める。 すると、そこへ、味方の兵が駆け寄った。 「ロレンソ様!! 住民たちの避難が完了しました!!」 「そうか!!」 ロレンソの鋭利な目元に、光が走る。 彼は、即座に、中空に向かって大きく5発の銃声を放つ。 退却!!―――インカ兵たちは、ロレンソの合図を鋭く聞きつけ、一斉に退却に転じた。 そして、敵兵の追撃を避けながら、全力で移動していく。 高台へ…少しでも、高台へ―――!!! 一方、高台へと退却していくインカ兵と、彼らを追撃せんとする自軍のスペイン兵とを、市街地に再び布陣し直した陣営の一角から鋭く見据えていた敵将ピネーロは、不意に、激しい不穏な念に突き上げられた。 まさか…―――?! ピネーロが、言い知れぬ不気味な直観に貫かれたのと殆ど同時に、彼がインカ軍の陣営に放っていた斥候が、顔面蒼白になって走り込んできた。 「ピネーロ様、大変でございます!! インカ軍は、再び堤防周辺に布陣しております!! も、もしや、もう一度、水攻めを?! 先ほど水が止まりましたのも、あ…あれは水攻めの失敗などではなく……インカ軍が、意図的に決壊部を塞いだためのようで…!!」 己の不穏な直観を裏付けるような斥候の報告に、さすがのピネーロも、ジワリと背筋に不快な発汗を覚えた。 その間にも、斥候は、血を吐くように叫び続ける。 「インカ軍は、住民を避難させながら我々を街中におびき寄せ、住民どもが避難しきったところを見計らって、今度こそ、本格的な水攻めを仕掛けてくる算段ではないかと…!! 住民が避難しきった今となっては…――!!」 堰切ったように斥候が泣き叫びながら報告する傍らで、ピネーロは、いよいよ全身にゾクゾクと冷たい戦慄が走るのを感じていた。 彼は血走った眼で、咄嗟に副官を振り向いた。 「まずい…ぞ……」 「え…?!」 「まずいぞ!! 来る……!!」 ピネーロの煮え滾(たぎ)った鬼気迫る形相に、副官はギクリと身を固める。 ピネーロは全身を総毛立たせ、狂気にも似た剣幕で、グワッと、歯を剥き出した。 「全ては罠だったのだ……!! 即刻、ここから兵を退(ひ)く!! 今度こそ、一刻の猶予もならん!! 退却だ!!! 急げ!!!」 あまりのことに副官が呆然と目を見張る間にも、ピネーロは自ら陣営を大股で走りながら、殆ど半狂乱で叫びはじめている。 「退却!! 退却だ――!!! 高台へと急げ!! 大水が来るぞ!!!」 ―――が、全ては、既に、遅かった。 はやくも足元の地面は、ゴゴゴゴッ……と、不気味な唸りと震動を発しはじめている。 明らかに、尋常ならざる大きな何かが迫りくる気配―――!!! 「!!!」 ピネーロも、そして、全軍のスペイン兵も、ガッと目を剥いた。 その時には、巨大な大津波の牙が大きく振りかぶりながら、ソラータの街めがけて押し寄せてきていたのだ――……!!!! ピネーロたちが愕然と凍りつく間にも、大水は怒涛の勢いで迫りきて、そそり立つ巨大な水の壁さながらに天高くせり上がった。 天頂に輝く日の光が、完全に遮られる。 空気が氷のように冷たくなった。 と、次の瞬間には、天空高くそそり立つ水の壁が、地上に向かって莫大な落雷を叩きつけるがごとく崩れ落ちてきた。 耳を劈く轟音!! 高く高く跳ね上がる厖大な水飛沫!!! 大海の大津波のごとく押し寄せる暴水―――!!!! 全ては一瞬のことだった。 街も、スペイン軍陣営も、白人兵たちも、何もかもが、怒号の激しさで猛り狂い奔走する鉄砲水に、弾き飛ばされ、押し流されていく。 家々は瞬時に全壊し、木々は根こそぎ薙ぎ倒され、白人兵たちの後生大事な大砲も何も、ゴミのように水中に散っていく。 波は波を呼び、うねりはうねりを促して、新たな巨大な波濤が次々と生まれては、繰り返し、凄まじい勢いで崩れ落ちる。 ひとたび水が荒れ狂うとき、一瞬にして全ては押し流され、根こそぎにされ、営々と築き上げてきた人間の世界は一面の水の底に沈んでしまう――ソラータの街も、スペイン軍の陣営も―――!!! もはや、数秒前まで、そこが街であったなどと想像すらできない。 水かさは、どれほどの高さであろうか。 見渡す限り、茶色に濁った水、水、水――そればかりだ。 少なくとも、街の家々の屋根よりも水深は高いに違いない。 そこは、今や、一面の茫々たる濁流の海と化していた。 幾度と無く大波が逆捲き、折り重なって押し寄せ、右に左に波打ちうねり、轟々と唸りながら、全てのものを押し流していく。 これほどの濁流の中に容赦無く呑み込まれたスペイン兵たちが、果たして、どれほど生き残り、水中から浮上したか、もはや推し量りようもない。 激しく波打ち泡立つ水面では、家々から引き剥がされて弾き飛ばされた木戸が、ぐるぐると狂ったように回転している。 その傍で、辛うじて水面まで浮上した兵たちが、ある者は丸太や荷車の車輪につかまり、また、ある者は葡萄酒の革袋を浮き袋にして、半ば溺れながらバタ足などしている。 身を少しでも軽くするために、無我夢中で武具を脱ぎ捨て、腰の銃やサーベル、果てはポケットの中身まで、半狂乱で捨て去る白人兵たち。 彼らは白い顔を冬の冷水の中でいよいよ蒼白にして、真青になった唇の奥でガチガチと歯を鳴らしながら、当ても無く助けを叫び続けている――……。 それでも、生き残った兵たちは、何とか乗り上げられる高所を求めて、沈みかけた体で必死に泳ぎ続けていた。 そのような敵兵たちと街の様子を、裏山の崖上から、まんじりともせず見届けたアンドレスは、僅かに瞼を伏せて、街の方向に弔いの礼を払った。 生き延びて、がむしゃらに陸地を探すスペイン兵たちの浸かる水底には、その何倍もの、否、何十倍もの、敵兵たちの亡骸が浮遊していることだろう……。 今のアンドレスには、命からがら生き延びた彼らまで追い討ちをかけにいく気持ちには、到底、なれなかった。 戦闘の後、たとえ勝利の戦に終わっても、どこか寥々たる隙間風が吹き抜ける――それは、彼にとって、今も、以前も、あまり変わってはいなかった……。 特に、此度の水攻め作戦は、己が言い出したこととは言え、今、こうして終わってみれば、眼下に展開する情景は、あまりに悲惨極まりない。 その責め苦は敵方が受けているものとはいえ、胸のむかつきとやるせなさを、じくじくと感ぜずにはいられなかった。 否、敵方だけではない――己の不手際故に至った銃撃戦では、味方の兵にさえ、少なからぬ犠牲を生じてもいたのだ。 (これほどの惨状にならぬために、俺は、何度だって、和議を進めようとしたじゃないか…! いや、実際に、和議の場だって設けた…!! スペイン兵たちさえその気があったなら、俺は、彼らを安全に当地から退却させる準備があったのだ…なのに……! 敵はあまりに強硬だった…だから、結局は、ここまでせざるを得なかったんだ――……!) そのように思い巡らせて懸命に己を納得させようとしてみても、己の中に渦巻く空々しい思いを拭い去ることはできなかった。 アンドレスは、微かに震える指を握り締め、俯(うつむ)いて目を伏せた。 「アンドレス様…」 俯くアンドレスの傍に、寄り添うように声をかけたのはベルムデスだった。 アンドレスは苦しげに目を上げて、常に静かで穏やかな佇まいを纏う老練の重臣を見つめた。 「ベルムデス殿…」 「アンドレス様、あなた様の策は、ご成功されたのです。 おめでとうございます」 「ベルムデス殿……」 揺れる瞳で己を見つめる彼に、ベルムデスは、そっと微笑んだ。 「どうか、そのようなお顔をなされますな。 ソラータの地を奪還するという、インカの民の切望をついに叶えたのです。 あなた様やインカのために、此度の作戦で懸命に力を振り絞った兵たちは、今は、あなた様の笑顔をこそ、見たいと願っているはず。 それに、まだ、全てが終わったわけではありませぬ。 さあ、アンドレス様、陣営に戻りましょう。 そして、次のご指示を―――」 静かなベルムデスの声に、やがてアンドレスは黙って頷いた。 そして、今一度、完全に水没した眼下の街を見下ろし、吹っ切るように踵を返した。 ***物語は、下記の地図(資料)の下にも続きます*** <資料:アンドレスが奪還したソラータってどこ?> 此度の反乱は、大きく「ペルー副王領(トゥパク・アマルが総指揮)」と「ラ・プラタ副王領(アンドレスとアパサが総指揮)」にまたがる(正確には、さらに広範囲)。 地図の薄緑色の部分が、「ラ・プラタ副王領」の主要部(現在のボリビア界隈)。 アンドレスが奪還した「ソラータ」は、地図上には記されていないが、ラ・パス(La Paz)の少し上、ティティカカ湖東岸の国境付近に位置し、両王領を結ぶ要衝の地。 ラ・プラタ副王領では、この「ソラータ(アンドレス軍が水攻めで奪還)」と「ラ・パス(アパサ軍が奮戦中)」を中心に、インカ軍がスペイン軍と激闘を展開。 ---------< 物語続き >--------- この後、アンドレスたち当地のインカ軍には、決壊させた堤防を再び修復して水を止めるという、大事業が待っていた。 そして、川を元の状態に戻し、ソラータの住民たちが、また街で平和に暮らせるようにしなければならない。 それは、住民たちのためのみならず、この反乱の成功のためにも必須のことであった。 ここまでソラータ奪還に過大なエネルギーを注いできたのも、この街が、ペルー副王領とラ・プラタ副王領をつなぐ要衝の地にあるが故であり、従って、今後の反乱の展開のために、もう一度、この街が元の機能を取り戻さねば意味は無い。 従って、此度の大惨事に巻き込まれたソラータの街そのものの復興事業も、アンドレス軍に残された重要な仕事であった。 洪水後の街がどれほど悲惨な状態になるか――…それは、まさに想像を絶するものであった。 その復興ともなれば、要する労力は、ただならぬものである。 だが、あのギリギリの作戦渦中に比べれば、その負担は、いかに物理的な困難さを伴おうとも、心理的には、だいぶ軽いには違いなかった。 かくして、此度の作戦を振り返ってみれば、アンドレスを中心にインカ側が練った苦肉の策は、その様相を既に見てきた通り、水攻めを二段階に分ける、というものであった。 それは、住民たちが人質として街中に囚われていたためであり、彼らを無事に逃がすことが、作戦の重要な眼目の一部であったためである。 従って、最初の水による攻撃では、敢えて一部の堤防のみを決壊させ、完全には街を水没させることをしなかった。 そして、敵兵の退却する隙をついて住民たちを避難させ、その後、住民たちの避難を安全に完了するため、及び、敵兵たちを街中に再びおびき寄せるために、一旦、堤防の決壊部を塞ぎ、水を堰き止めなおした。 その後、住民の避難が完了し、敵兵たちが街中に布陣しなおしたところで、間髪入れずに本格的な二段階目の水攻めを決行し、敵を潰す――という作戦であった。 このアンドレスたちの水攻め作戦は、結果的には、インカ側の勝利という形で、一応の決を見ることができた。 しかしながら、インカ軍にも、被害が出なかったわけではない。 特に、一段階目の堤防の決壊部を塞ぐ作業に、アンドレスら堤防に残った軍勢が手こずったがために、住民を守りつつ敵をおびきよせるために街中で銃撃戦となった際のインカ兵の犠牲は、少なからぬものであった。 それらの戦死した兵たちを手厚く弔い、また、街の復興作業に勤しむアンドレスの横顔には、作戦決行後数日を経ても、なお、どこか苦渋の陰を拭えない。 ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第八話 青年インカ(18)をご覧ください。◆◇◆ |